ネパールのグルン族と紀元前の日本
地球文化研究所では1990年12月の第1回ネパール調査の結果を踏まえ
1991年4月11日から4月27日にかけて南インドのタミルナドゥ州 ケララ州の調査に続き
ネパールの各地に住むグルン族、すなわちカトマンドゥ、ポカラ、ダンプス、ビチョク、チャンドラコット、ルンビニ、ティウラコットなど
各地で生活を営むグルン族(かの有名なグルカ兵を輩出した民族)の、
言葉と習慣
人種的特徴
古伝承
遺跡
宗教
文字
などを調査し、古代ネパールのグルン族とインドのクル族 日本の高麗人 天皇家の間に想定されている失われた歴史的なつながりを
復元するための材料をいくつか入手した
グルン語と日本語の一致
数詞 |
グルン語 |
日本語 |
2 |
ni |
に |
3 |
san |
さん |
4 |
srii |
し |
5 |
nga |
ご |
8 |
prat |
はち |
9 |
gu |
く |
10 |
ju |
じゅう |
基本語 |
グルン語 |
日本語 |
鼻 |
na |
はな |
顎 |
gah |
あご |
眉 |
meja |
まゆ |
耳 |
name |
みみ |
目 |
mi |
め |
人差し指 |
yuoma |
ゆび |
腹 |
po |
はら |
へそ |
pothi |
へそ |
男根 |
mile |
まら |
肘 |
paindo |
ひぢ |
肩 |
unshu |
うなじ 首のうしろ |
私 |
nya |
な 汝 己 なれ |
母 |
ama |
あま 婦人 |
祖母 |
baje |
ばあや |
兄 |
agi |
あぎ |
姉 |
nani |
なね 親しい男女に対する呼び名 ※スサノヲがアマテラスをなねのみことと呼んだ例あり |
歩く |
pra |
ぶらつく |
駆ける |
gonlego |
かける |
食べる |
saba |
たぶ |
掘る |
pula |
ほる |
寝る |
nelu |
ねる |
語順 日本語と同じ
キエミトジャ? |
君の名はなんじゃ |
ki ye mi to ja |
ニャエミグルンジョ |
わたしの名はグルンじゃよ |
Nya ye mi Grung ja |
グルン人と日本人の一致 写真参照
グルンの王家と日本の天皇家の一致
ネパールに現存するグルンの同族
レプチャ族は2,500年前のブッダ時代に活躍したリッチャビ族の末裔
リッチャビ |
リビッチャ |
レブッチャ |
レプチャ |
当時の拠点はインドのパトナの北東43キロメートルにあったヴァイシャリー。
そしてリッチャビという発音が別の形で変化したものに漢字を当てはめると、古事記,日本書紀に記された第4代天皇の名前と一致する
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原音 |
リッチャビ |
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音韻転訛 |
ラッテュゥモ |
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アナグラム |
ライュウモッテ |
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以=呂 |
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漢字表記 |
来友呂 |
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漢字変形 |
耜友 |
日本書紀 |
慣例読み |
すきとも |
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別表記 |
鋤 友 |
古事記 |
こうして日本書紀 古事記に耜友 鋤友と記された日本第4代の天皇いとく天皇はBC530−514年頃のネパールおよび北インドで
活躍したリッチャビ族(レプチャ族)の王であったことがわかる
グルンの都と古代日本の都の一致
BC6世紀にリッチャビ王が活躍する以前にも日本の古事記(沼河耳) 書紀(淳名川耳)に記された第2代天皇、
ヌナカハミミ=綏靖すいぜい天皇はネパールのルンミンディ王として活躍し、カトマンドゥの墓に葬られたことが同様に確認できる
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綏靖天皇の諱名 |
綏靖天皇の墓 |
原音 |
ルンミンディ |
カトマンドゥ |
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ルムミヌディ |
カチョマムヅウ |
音韻転訛 |
ルミミナティ |
カチョモモダウ |
アナグラム |
ティナレミミ 名礼=川 |
カチョウモモダ |
漢字表記 |
渟名礼川耳 |
花鳥桃田 |
漢字変形 |
渟名川耳(紀) |
桃花鳥田 |
慣例読み |
ぬなかはみみ |
つきた |
別表記 |
沼河耳(記) |
衝田 |
要するに 日本の天皇家はかってネパールのルンビニ−(ルンミンディ)やカトマンドゥに都を置いてアジアを統治していたといえる
このことは日本の第3代天皇タマテミ(安寧天皇あんねいてんのう)が
ネパールのポカラに都を定めたカトマンドゥの王であったと言えることによっても別の形で証明される。
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安寧天皇の諱名 |
安寧天皇の都 |
原音 |
カトマンドゥ |
ポカラ |
音韻転訛 |
カタマンジュ |
プカウ |
アナグラム |
タマジュカン |
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漢字表記 |
玉手看(紀) |
浮孔 |
慣例読み |
たまてみ |
うきあな |
別表記 |
玉手見(記) |
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以上のように古代日本の第2代から第4代までの3人の天皇が、いずれもネパールのルンビニ−やカトマンドゥ ポカラに都を置いて、
アジアを統治した形跡を示すことは、日本人と、天皇家の起源がネパールのグルン族、インドのクル族に求められることを意味している
ポカラにあるシバ神妃 カーリーを祭った社の入り口には、インドデカン高原のゴダバリ川(管原川)流域で神聖視された天神様=管原氏
(もと管原氏)の神牛と全く同じ牛が安置されている
グルンの歴史と日本の歴史の一致
古代インドの歴史によれば、紀元前6世紀まで遡るインドのマガダ国は、
前4世紀末にチャンドラグプタが新しく開いたマウリヤ朝のマガダ国に移行する前まで
ウグラセーナに始まり、ダナナンダに終わるナンダ朝の9人の王によって治められていた
このナンダ朝マガダ国の第5代の王は仏教に帰依したことで有名なビンビサーラ王であり
第6代の王は仏教の発展に大いに貢献したアジャータシャトル王クニカである
第7代の王はのちにマガタ国の王に迎えられたコーサラ国王プラセナジット
第8代の王はプラセナジットの息子バッダサーラ
第9代の王はダナナンダである。
一方日本の古事記、日本書紀によれば、崇神天皇に始まる、新しい王朝以前の日本は、
これまたインド、ネパールのナンダ朝マガダ国と同様、9人の天皇によって統治されたと伝えられている
ここで重要なことは古代インドのナンダ朝マガダ王と、草創期の日本の天皇がそれぞれ9代続いたという点で一致するだけでなく
個々の天皇の名前とナンダ朝マガダ王の名前もまた細部にわたって一致する点である
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第9代天皇 |
第8代天皇 |
原音 |
ダナナンダ |
バッダサーラ |
音韻転訛 |
ダナナン |
バッタツァーナ |
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ダニッニッ |
バタタナ |
アナグラム |
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タナバタ |
漢字表記 |
大日日 |
牽(七夕の牽牛星) |
慣例読み |
おおひひ |
くる |
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開化天皇の諱名 |
孝元天皇の諱名 彦国牽 ひこくに |
開化天皇のあと初国知らすスメラミコトとして即位した崇神天皇の諱名ミマキイリヒコ御真木入日子は、
ダナナンダのあと、マウリヤ朝を創始したチャンドラグプタの名が、チャンジィルギピツ ションギイルキピス ギョシンキイルピスと変化したものに、
御ギョ 真シン 木キ 入イル 日ピ 子スの漢字をあてはめたものである。
チャンドラグプタ |
チャンジィルギピツ |
ションギイルキピス |
ギョシンキイルピス |
御ギョ 真シン 木キ 入 イル 日ピ 子ス |
ミマキイリヒコ御真木入日子 |
ナンダ朝マガダ王と天皇の名前の一致をさらに見てみよう
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第7代 |
第6代 |
第5代 |
原音 |
プラセナジット |
アジャータシャトル |
ビンビサーラ |
音韻転訛 |
プアシニジット |
アジータサトル |
ビヌハトシエラ |
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プシニジット |
ウシータソトラ |
ヒネカドシエロ |
アナグラム |
ジッシプトニ |
ラーシタソウト |
ヒネカエシドロ |
漢字表記 |
日子賦斗邇 |
日子国押人 |
日子訶恵志泥 |
慣例読み |
ひこふとに |
ひこくにおしひと |
ひこかゑしね |
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孝霊天皇 |
孝安天皇 |
孝昭天皇 |
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※エジプト語 日(ラー) 国(タ) |
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ナンダ朝マガダ王と初期の天皇の名前が以上のように一致することは、われわれに次のような結論を受け入れることを余儀なくさせる。
つまり古代日本の初期の天皇は、紀元前6−4前世紀のインド、ネパールに実在し、
シャカと同時代かその前後の時代に活躍したナンダ朝マガダ国の王であったという結論にならざるを得ない
日本の天皇家を開いた神武天皇のまたの名、ヒダカサヌ(ノミコト)は
ナンダ朝の創始者ウグラセーナがウカラサーヌ ラーカウサヌ
と変化した音に日(ラー) 高(カウ) 佐(サ) 野(ヌ)
の漢字をあてはめ のちにヒダカサヌと読ませたものだ
これまでその実在を久しく疑問視されてきた
神武天皇は前6世紀のインドでにナンダ朝を開いた、マガダ国の王だったのだ
ナンダ朝の創始者 |
ウグラセーナ |
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ウカラサーヌ |
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日(ラー) 高(カウ) 佐(サ) 野(ヌ) |
日高佐野 |
ヒダカサヌ |
エジプトからインドに日本の天皇家を移した人物 |
神武天皇のヒダカサヌ(ノミコト) |
これまで述べたことを整理するしてみると
今まで長いあいだ、不明だった日本人の祖先の歴史、古代天皇家の失われた歴史が次のようによみがえってくる。
ナンダ朝マガタ国 古代インドネパール王の名前
代 |
在位 |
インド名 |
日本名 |
1 |
600−564BC |
ウグラセーナ |
日野佐野 神武 |
2 |
564−548BC |
ルンミンディ |
渟名川耳 綏靖 |
3 |
548−530BC |
カトマンドゥ |
玉手看 安寧 |
4 |
530−514BC |
リッチャビ |
耜友 徳 |
5 |
514−473BC |
ビンビサーラ |
日子訶恵志泥 孝昭 |
6 |
473−423BC |
アジャータシャトル |
日子国押人 孝安 |
7 |
422−385BC |
プラセナジット |
日子賦斗邇 孝霊 |
8 |
384−352BC |
バッダサーラ |
彦国索 孝元 |
9 |
351−322BC |
ダナナンダ |
大日日 開化 |
ここから結論できることは 紀元前数百年前の日本の中心はインド北部ネパールのルンビニ−やポカラ カトマンドゥにあり
古代の日本人 初期の天皇家はヒマラヤ山麓にあってアジアを治めていたという事実である。
グルンの宗教と日本の宗教の一致
このような事実をさらに具体的に追求していくと
われわれは従来予想もしなかった、新しい重大な事実にぶつかる。
たとえば以上で確認したように
日本初代の天皇
ヒダカサヌ 神武
がナンダ朝マガダ国の初代の王ウグラセーナであるなら
日本書紀に記されたヒダカサヌの息子の手研耳
はブッタ゛の父スッドーダナと同一人物であるということがいえるからだ。
日本書紀によれば手研耳はタギシミミと読まれ
ヒダカサヌの死後腹違いの弟ヌナカハミミに殺され王位を奪われるまで
片丘大室 かたをか おほむろにあって政治をとっていたと伝えられる
そのタギシミミがブッダの父スッド―タ゛ナであることは次の経過を見ればハッキリしている
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原音 |
スッドータ゛ナ |
音韻転訛 |
スドダナ |
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スドジヌ |
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シュトジク |
アナグラム |
シュトクジ |
漢字表記 |
手研耳 研はトグと読める |
慣例読み |
たぎしみ |
ブッダの父スッド―タ゛ナが日本の天皇家ゆかりの人物であり ブッダが神武天皇=ウグラセーナの孫だったということは
とても信じがたいことだが この事実はスッドーダナのいたカピラヴァツギル=カピラ城の名が日本書紀の中に形を変えて記されている事実によっても確かだといわなくてははならない。
つまりこうである。
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原音 |
カピラヴァツギル |
今のティラウラコット城 |
音韻転訛 |
カミラボアツギウ |
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カムロホオタキウ |
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アナグラム |
カタキウオホムロ |
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漢字表記 |
片丘大室 |
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慣例読み |
かたおか おほむろ |
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現在のわれわれには意外なことだが、歴史上のブッダはたしかに古代日本の天皇家の出だったといえるのだ
ネパールのグルン族は今も基本的に仏教徒である、と同時に人間の魂は死後に肉体を離れて天に上るという日本古来の神道の観念を継承している
このことはネパールの各地に住むグルンの人々が亡くなると
その遺体はすべてポカラのグルンクラブセティ川に面し
マチャプチュレの頂きを遠望する景勝の地に建てられたネパール仏教寺院に運ばれ
ここで火葬されたのち、灰は川に流されて
死後の魂は、天への道を昇るとみなされ続けていることによって確かめられる
グルンの古写本と日本の古写本の名称の一致
今回私は、古代グルン族の使っていた文字が
インドのデカン高原に日本の古代文字を残した
クル族の文字と同じものであることを確かめに行ったが
この試みは十分な調査時間をとることができなかったため、見るべき成果がなかった
しかしポカラの北西に位置するアンナプルナベースキャンプの
近くに住むグルンの古老は、彼らの昔の歴史を古い文字で記したバンソリ
という古いテキストが、かってそこからネパール全土にグルン族が広まったという言い伝えを持つ
グルンの古い村落、ポカラの北東に位置するラムジュンの
山の懐に抱かれた、ガンポカリのあたりに今も保存されているはずだと語ってくれた
そのバンソリが、古代の日本で木簡や竹簡を編んででつくったバンササラ(日本のサンカに伝わる
編休子 編竹)の音を縮めたバンサラに相当するものらしいのは大いに注目される
バンソリの入手が第3回ネパール調査の課題である
後記 第3回以降の調査では、カピラ城址から出土した金貨の表面に神武天皇の皇子カムヤヰ(神八井)の名がアヒルクサ文字で刻印されていること等々を確認した。
ナンダ王朝からモーリヤ王朝へ―中村 元 インド仏教史より
ギリシャ アレクサンダー大王の侵略の後
モーリヤ王朝が史上はじめて統一国家を形成した
ヒマラヤ山脈の丘陵地帯で生まれたチャンドラグプタは西北インドで挙兵し
ナンダ王朝の将軍バッダサーラと戦い勝利しダナナンダ王を稀殺
アレクサンドロスの配下のセレウコスは自立してシリア王となり、アレクサンダーがかって攻略した中央インドを攻めようとした。
Bc305インダス川をわたりインドを征服しようとした
チャンドラグプタは、25万の兵力と9000頭の象を用意して反撃しようとした。
西北インドから、ギリシャの軍事的勢力の一掃
インドからギリシャへ影響をおよぼす。
チャンドラグプタは北はヒマラヤ 南はヴィディヤ山脈を超えて、アフガニスタンやパルチスターンを含む大帝国を建設。
ここにインド史上はじめて全インドに亘る大帝国の出現。
インド人最大の王となった。
国土統一の国民的英雄となった。
ヂャイナ教を信奉。
ビンドゥサーラはチンドラグプタの子
ビンドゥサーラの王子はアショーカ
アショーカと父ビンドゥサーラは仲が悪く
チャンドラグプタの時代からギリシャと友好関係
チンドラグプタ |
ビンドゥサーラはチンドラグプタの子 チャンドラグプタの時代からギリシャと友好関係 |
ビンドゥサーラ |
101人の子をもつ ビンドゥサーラの王子はアショーカ |
アショーカ王 |
アショーカと父ビンドゥサーラは仲が悪い。 タクシヤシーラ市の反乱の平定 父が死んだとき長兄を殺害して王権を獲得 多数の異母兄弟99人の殺害 全インド統一的王権の獲得 バータリプトラ城で即位潅頂 カリンガ制服戦で戦争から平和への一大転換へ。仏教へ目覚める。 一切の人々はみな我が子なり 戦争の悲惨さから深刻な懺悔 法の実現のための政治を |